激というのは、単純で頭の働きが鈍く、物事を直感で捉えることしかしない。
時折、彼に思考の切れ端のようなものを見て取れることもあろうが、それは直感を延々と疑い続けただけの産物であって、決して思考と呼ぶにふさわしい働きではない。
「……なぁ、親仁。アレは、あんたの趣味かい?」
どこぞのバーのカウンター。
そのテーブルを背もたれに、カウンター越しに立つこの店のマスターに向かって、仰け反るような姿勢で問う。
もっとも、視線だけは彼……激自身の正面に向けたままという、器用なことをやってのけながらだ。
「あぁ、違ぇよ……なんでも流しの歌い手らしくてな。一晩だけ歌う場所を貸して欲しいつってきてよ」
「へぇ……こんな小汚ぇ酒場に、ねぇ」
薄暗い照明に照らされ、銀色に光る片眼鏡越しに非難の視線を送られるも、激は気にした風も無く笑った。
既にこういうやり取りを何度と無く繰り返しているのか、マスターもその笑みに肩をすくめるのみだ。
「……まぁ、確かに、考えられんがな」
ぽつり、そう漏らしたマスターと激の視線の先には、その歌い手が立っていた。
彼女、の口から流れ出るのは、渇ききった空気に優しい暖かさをもたらし、人のとげとげしい部分を優しく包み込む歌声。
柔らかな声音が耳に穏やかに滑り込んでくる感覚は、快楽に近い。
そしてなにより、その場にあるだけで人を和ませるに足る、不思議な空気を纏った美人だ。
彼女の暗褐色の髪が揺れる様は、たとえ歌が無くとも絵になるというもの。
「ふーむ……」
己と歌い手の間に置くようにグラスを掲げ、茶の湖に浮かぶ氷塊越しに彼女を眺める激は、その歪んだ像に微笑みかけながら呟く。
「にしても、よ」
「あ?」
マスターの応えは上の空だ。目の前の男に不審げな一瞥をくれてから、この小さな舞台の歌姫に蕩けかけた視線を送り続けている。
「人間っつーのは、良いよな」
掲げたグラスを今度は周囲へと移していき、そこに移る客の像を歪めながら、笑った。
多いとはいえないまでも、決して少なくない客達は、その激の様子に気づくはずもなく、談笑に興じたり、あるいはマスターと同じように歌い手へ視線を注いでいる。
「本当、良いもんさ」
「……何が言いたいんだ?」
「さぁて、ね?」
仰け反るようにマスターへ笑みをくれてから、グラスの液体を一気に呷り……咽る。
「無理するなよ。あんた酒弱ぇんだから」
「っごほっ……矛盾を抱え、罪を犯し、悔やみ、憤り……そして憎みながら、それでも楽しく暮らそうっつー人間ってぇいきもんは、すげぇよ」
湖は干上がり、氷塊だけが転がるグラス。それが奏でる音を歌の中に混ぜて楽しみながら、歌い手を眺める。
「……どうした?咽た時に酒が脳みそまでいったか?そりゃ大変だ、直ちに酒抜きしねぇと耳から脳みそ流れ出て死んじまうぞ?あーあかわいそうにご愁傷様」
「はっは!親仁も上手いこと言うねぇ褒美として今日の酒代ツケてあげよう」
「ふざけるな真っ先に死ね」
これもまたいつもの応酬だ。
激と、マスターがやる、コミュニケーションの一種である。
「冗談だよ、冗談……にしても、良ーい歌だな……」
「ったく……・」
尊大な姿勢を崩さず、グラスをマスターに向かって揺らしておかわりを催促しながら。
「酒代はきちんと払えよ」
その言葉に笑みで返してから、今度はグラスを舐めるようにして酒を口に入れる。
「ん……本当、良い歌さ」
誰にも聞こえないほどの小声で、ため息混じりにそう呟いた。
そして彼女の歌声は滔々と流れ、人の合間に滑り込んで彼らを優しく包み続ける。
彼女の暖かい歌が、人々の心を蕩けさせる。
激には分からない、未来を喜び今を悦ぶ歌が。
反省も後悔もしている。
てか、やべぇ、まったく駄目だ。
いい加減、頑張らないと。
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